「何をしたら」(牧師:松島良春)

沖縄聖書キリスト教会牧師:松島良春

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」マルコ10:17

人は、「何をしたら」という問いを常に持ちつつ生きている。
子どもは、「クラスの皆と仲良くするには何をしたらよいのだろうか。速く走るには何をしたら…、成績が良くなるには…」と考え、大人は、「良い暮らしをするには何をしたら…、人間関係を良くするにはどうすれば…」と、考えている。
イエス様のところに来た青年は、若さがあり、社会的地位があり(役人であった)、金持ちであり、律法を守っているという、何不足のない人物であった。
彼は、神の教えを守って生きてきたという自信はあったが、永遠のいのちを得ているという確信がなかった。自分はどんな良いことをすれば永遠のいのちが受けられるのかを知りたくてイエス様のところに来た。
良いことをすれば、良い人間であるならば天国へ行けるだろう、というのはだれもが抱いだく、偽いつわらざる希望である。

ある一人の男性がいた。末期癌で死を迎えようとしていた。右手の小指は失われ、左の肩には「裏切り者」と彫られた入れ墨があった。これまでどのような罪の人生を送ってきたのだろうか。眼光がんこう鋭いその方は、間もなく世を去ろうとする前にイエス様の福音に出会った。
神の前に罪を悔い改め、病棟でバプテスマを受けるその方の目から一筋の涙が頬を伝った。
何のいさおし(功績、名誉)も無かったその方は、神から永遠のいのちを与えられ、平安の内に天に凱旋がいせんして行った。

神は、実に、そのひとり子であられるイエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架上で私たちの罪の身代わりとして死なせるほどに、私たちを愛してくださった。それはイエス・キリストを信じる人が、だれであろうと、滅びることがなく、救われ、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16