「詩篇59篇3節」(牧師:重元清)

詩篇59篇「理不尽な苦しみ」 石川福音教会牧師 重元清

ダビデは、詩篇59篇3節で「今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せしています・・・主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。」と語りました。自分が神様に背を向けて歩んでいるのでもないし、自分が何か罪を犯したわけでもない。それなのに苦められているのは何故かという訴えです。何故、こんな事になったのか。ダビデのいのちさえ奪おうとしていた「彼ら」とは誰なのか。詩篇59篇のタイトルには「ダビデを殺そうと、サウルが人々を使わした」とありますから、ダビデを殺そうとしていたのはサウル王様だったことがわかります。 1サムエル記の18章に記されて行きますが、サウル王は、ダビデに槍を投げつけて殺そうとします。その原因は、ダビデがサウル王に仕え、一生懸命働いて手柄を立てた事にありました。これまでイスラエルを苦しめてきたペリシテ人についに勝利して帰って来た時、町々から出てきた女達は、タンバリンや、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えたわけです。しかし、そこで語られたのは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉だった。この言葉を聞いてサウル王は非常に怒り、ダビデに疑いの目を向け、ついには槍を投げつけて殺そうとします。

ここには、真面目に一生懸命生きれば報われる姿ではなく、逆に苦しめられるようになった姿があります。

こういう理不尽な苦しみの中で、尚、神様の前に立ち「私を助けてください(4節)」と語り、ついに「私の苦しみの日に、あなたは・・私の逃げ場であられたからです。私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います(16~17節)」と語るようになって行きます。

この詩篇59篇には、ダビデが神様の前でくぐり抜けなくてはならなかった苦しみと、そこを通過しないと見えて来ない光が描かれているのではないのか。理不尽に思える苦しみの中でも神様を見上げ、そこでダビデを見出し、更にはイエス様を真実に見出す歩みができたらと願わされます。