「戦争と平和」(牧師:折田政博)

『戦争と平和』 ホセア6章1節 天久神の教会 牧師 折田政博

8月15日と云えば、終戦記念日です。戦争を経験された方々にとっては、感慨も新たにこの日を迎えられたと思います。M牧師はこの日、医学生として神戸医大病院の大講堂で終戦の勅令を聞きました。広い講堂の後の方に立っていた彼には、旧式のラジオのせいもあって、放送の内容は全く聞き取れませんでした。しかし、前の方からのすすり泣きが広がってくるにつれて、それがただならぬ放送である事を感じました。

あとで、それが天皇陛下じきじきの無条件降伏の宣言あったことを聞かされ、一同愕然となったことを思い出します。

しかし、いずれにせよ、戦争は終わりをつげたのは本当によかったことでした。この終戦記念日を迎えるたびに、思い出すのが今日のみ言葉です。ホセア6章1節です。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

たしかに、日本は敗戦という未曾有の大試練を受けましたが、これは思い上がっていた日本に対する神の鉄槌であったと受けとれます。しかしその日本が、今日の繁栄を見るまでに立ち上がれたのは、いうまでもなく、日本国民の努力と勤勉さによるのでしょうが、それは同時に哀れみ深い神様の恵みの賜物であることを忘れてはなりません。神は引き裂かれるけれども、いやし、うたれるけれど包まれる方です。

毎年、私はこの日を迎えるたびに、この御言葉を思い起こし、神の恵みを感謝すると共に、再び日本が神の鉄槌を受けるような事をくり返さないようにと祈るのです。

さて みなさんは「平和」とは、一体何でしょうか。この終戦記念日に当たって、これを真剣に考えてみることも必要です。最近、サイゴンから帰って来たある牧師が「日本がつくずく平和だと思う」と語っていた点がありました。

平和とは単に戦闘状態でないことや、戦争の一時休止の状態をいうのでしょうか。決して、そんな消極的なものではありません。平和とはもっと積極的で、 霊的なものです。それは人間の魂が、無限の神との生きた交わりに入った時に発動する、心の中の現実です。世の中には、いろいろな平和運動がありますが、 平和を口にしながらも、その人の心が憎しみや争いに満ちているようでは、平和になるはずはありません。では平和求める人間の心に、なぜ平和がないのでしょうか。それは人間がエデンの園で神に反抗した事、人間の心はいつも神と争っているからです。人間相互の摩擦や衝突は、人間の心はいつも神と争っているからです。人間相互の摩擦や衝突は、人間の神に対する闘いを示す一つの表われに他なりません。しかし聖書は「キリストは、私たちの平和である」と言っています。それはキリストが自ら神に敵対している人間の罪を背負って十字架にかかり、神と私たちの間を和解させ、平和をくださったからです。

キリストにおいて、神との平和はすでに成立しているというのに、あなたはいつまで逃げ回っていらっしゃるのでしょうか。主のもとに立ち帰って、神との平和を頂こうではありませんか。そうすれば、あなたも真の平和を味わうものとなることができるです。みことばを読み返しましょう。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

ホセア6章1節のみ言葉を感謝しましょう。 賛美歌531