「主の山に備えあり」(牧師:平安座修)

創世記 22 章は「信仰の父アブラハム」に対する神の鍛錬の場が備えられた箇所です。神はアブラハムを鍛錬し、その信仰を鍛えられます。どのように神は鍛えられたのでしょうか。
三つのポイントで見てみましょう。
第1のポイントは信仰の鍛錬として、神はアブラハムが「神の言葉を聴く」ことを徹底させます。神の言葉への傾聴が信仰の鍛錬となるには、長期的なときを用する場合があります。
アブラハムの場合,創世記 15 章で子孫が与えられるという契約が結ばれます。この場合、書面に記された訳ではありません。主が語られ、アブラハムはこれを聴き、応じた事で、「アブラムは主を信じた。主はそれを義と認められた」(創世記15:6)のです。ここに信仰の鍛錬の根拠である「神の言葉は真実となる」を体験させるのです。たとえ、それが実現するのに 25 年後であっても、待ち望むことができるのです。この「神の言葉への傾聴」は、創世記22章でアブラハムの信仰の鍛錬をさらに強固とさせる備えを得させます。主が語られる時に「はい、ここにおります」とアブラハムはいつでも主に応えています。


第2のポイントとして、信仰の鍛錬は、鍛錬ですから、厳しさが伴います。アブラハムの場合、創世記 22 章で、神によって与えられた 「独り子イサク」を「神に返しなさい」と命じられたのです。 創世記21章で長年待っていた神の祝福の初穂である、「イサク誕生を大いに喜び」、信仰の鍛錬の一つ 「神の言葉の真実」を体験したばかりであるのに、「イサクを献げる」とは、神の言葉を無にするような行動を促すとは、厳しい決断を迫られたので
す。アブラハムはどう応えたのでしょうか。その時も「アブラハムは主の言葉を信じた」のでした。つまり、状況がどうであろうと、「主の山(信仰の鍛錬の場)には備え(神の摂理を信じる信仰)」があるということを信仰によって、語っているのです。(ローマ8:28)


第3のポイントとして、アブラハムは信仰を試み(試練)と受け取ったのでしょうか。新共同訳では「試された」とあります。「試す」とは本当かどうかを判断するということです。
しかし、この意味では神がアブラハムを選んだ理由に反する訳のように思うのです。つまり、創世記15章6節で、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。すでに神によって義とされた信仰を持つ者に、「その信仰は本当かどうか」と試す意味があるのでしょうか。 神は試されたのではなく、主を信じたアブラハムを鍛錬して子として鍛えられるために 神の恩寵を体験させられたのです。(ヘブル12章1~13節)