「いけにえにまさる傾聴」(牧師:城倉翼)

「いけにえよりまさる敬聴」那覇バプテスト教会 城倉翼

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、お羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」(Ⅰサムエル15章22-23節)

以前、ラジオで聞いたことがあります。「敬う」という言葉はイエス様の十字架を現わしているというのです。その番組はキリスト教番組ではなく一般知識を紹介する類のものでしたが、非常に興味深く耳を傾けました。敬うという字を構成するつくりは、草かんむりが王冠を現わし、句という字がしもべを現わすそうです。つまりしもべとなった王だそうです。さらに右側のつくりが意味することは矛で、殺されたという意味にとれるというのです。しもべとなった王が殺された話だから、イエス様の十字架のことを指すと説明していました。思わずなるほど、とうなりました。その年の教会の年間主題を「傾聴と敬聴」にしたのはそんな経緯がありました。

実際のところ神様が私たちに期待しておられることは、その御声に聞き従うことだけです。しかしそれがなかなかできない人間の現実があるのです。

イスラエル最初の王であるサウル王は就任当初こそ豊かにその才能と力をもって用いられすばらしい王でした。しかし彼は大きな失敗を犯します。最初の失敗は、サムエルの7日待てという言葉を待ち切れず、勝手にいけにえを捧げてしまったことでした。そして2度目の失敗は、神様が聖絶せよ、と命じられた敵軍やその分捕り物を、良い物だけ自分のためにとっておいたことでした。実はしたことだけを考えるなら些細なことのようにも見えます。しかしこの行為は重要な罪だったのです。

預言者サムエルはサウル王になぜこんなことをしたのか、と問い正しました。実はここで求められていたのは素直な告白と悔い改めです。主はいつもそれを待っています。罪を犯すことは喜ばれませんが、だからと言って絶対に赦さないなどとは言われません。むしろ、即座に悔い改めたならば即座に赦してくださるそんな神様なのです。サウルの次の王であるダビデも晩年大きな罪を犯しました。しかし彼は預言者からその指摘を受けた時即座に罪を認め悔い改め、同時に主の赦しを体験したのです。

ところがサウルは悔い改めるどころか、自己弁護のためにうそを重ね言い訳をつらねました。さらにはサムエルに鋭く追及されると、他者の責任にすりかえて、決して自分は悪くなかった。と言い張り続けました。彼に待っていたのは王位のはく奪とみじめな戦死でした。この結果を招いたのはサウル自身の選択です。主を選ばず、目の前のよさげなもの、自分の欲しいもの、したいこと、それらを選んだからなのです。

サムエルはサウル王にそして時代を超えて私たちに厳かに宣言しています。「主の御声に聞き従うことはいけにえにまさる」いけにえが現すことは、律法が示す正式な犠牲の式であり、私たちの時代に置き返るならば礼拝式と言うことが出来ます。礼拝ではなく礼拝式です。時に礼拝にこだわるのではなく礼拝式にこだわることがあるのではないでしょうか。それは礼拝時間、礼拝場所、礼拝プログラム、礼拝形式、などに現される自分が慣れている礼拝スタイルです。

日曜日の午前中の礼拝が一番大切だとか、礼拝の場所である会堂は他の場所に優って聖であるとか、プログラムの順序であるとか、色々と大切だと言われることがありますが、神様の御声を無視してそこに心を向けて神様に喜ばれるはずがありません。これはサウルの過ちの二の舞になるのです。大切なことは傾聴と敬聴、神様の御言葉、御声に聞き従うこと、そして十字架のイエス様の姿を仰ぎ見て、その姿に従って生きることです。その上で良きいけにえ、礼拝を捧げる者とさせていただきましょう。主が望んでおられることはまず聴くことであるということを認め、主に聴くために日ごとのディボーションを大切にし、主に聴くために週ごとの礼拝を大切にすることが出来るように歩んでまいりましょう。